遠藤亜里沙(えんどう ありさ)氏
「こんにちわ、今日はよろしくおねがいします」
待ち合わせの喫茶店に現れた遠藤亜里沙は美しい黒髪と清楚な雰囲気が印象的な女性だった。彼女の端正な顔立ちと何事にも興味深そうに輝く大きな瞳を見れば、これまで幾多の男たちが彼女のナイトを気取りたがったことは想像にたやすい。
「実際、両親には感謝していますね。それなりの外見に産んでもらったことについては」
小学校高学年の頃から男が途切れたことはなかったという。
しかし、恋人がいるのが「普通」であった彼女にとって、恋人は「特別」な存在ではなかったようだ。
「なんか彼氏っていっても男友達の一番仲が良い子ぐらいの感覚だったんですよね。もちろんエッチとかはしてましたけど、なんか恋愛大好きな女の子たちがいっているような『彼がいないとダメ』みたいな感覚って全然なかったですね。それを友達にいうと『亜里沙は自立しているから』とか『大人だから』とかいわれてたんですけど、そういうんじゃなかったんですよ。ただカッコつけで、心の中にいる『本当の自分』を他人に見せることができなかったんです」
彼女は性的な妄想をするとき、いつも痴漢をされたり無理矢理されたりするシチュエーションを想像していたという。
「友達のお父さんとか駅にいたホームレスとか、なるべく汚い人をネタにして(笑)縛られたり首を絞められたり、自分が泣き叫ぶような姿を想像するとすごくエロい気持ちになったんです。厳しい家だったから、そんな自分を壊したかったのかもしれません。だけど私が付き合ってきた男の子たちってみんなちょっとナルシストというか、男のくせに化粧水とか使ってるような感じの小綺麗な人たちばかりだったから、私もカッコつけで相手もカッコつけだからデートとかしていてもなんだかオママゴトしているみたいな感じばかりで、いつも退屈だなぁと思っていました。でも、それが私の普通だったから気にはならなかったですね。女の子と遊ぶときも男の子と遊ぶときも、基本他人といるときって少し退屈なんだって、それが当たり前なんだなって思って生きてました」
彼女は心の奥底に秘めたマゾ的欲求を誰にも打ち明けられないまま、ずっと「普通」の恋愛をしてきた。
――25歳の夏、そんな彼女の世界を破壊する男が現れた。
「友達に誘われて参加した合コンで知りあった山田(仮名)くんって人なんですけど、もうすごいんですよ。合コンの席でまだ全然みんな酔ってないようなときから一人だけすごく下ネタいってて、もう女の子たちみんなドン引きしちゃってて(笑)『今日俺にお持ち帰りされたい人!』とかいって一人で手を挙げて女の子たちみんなシカトみたいな(笑)顔もそんなに良くないんですけど、なんかそのとき今までにないタイプだからいいなって不思議と思っちゃって、私の方から近づいていっちゃいましたね(笑)」
その日のうちに一夜を共にし、彼女は山田と付き合い始めた。
「『なんであんなのと付き合ったの?』ってよく周りの女の子たちからはいわれてました(笑)でも、なんか面白かったんですよね。もう毎日サルみたいに求めてくるし、部屋は汚いし、競馬とかパチンコとか行くし、とにかく臭いんですよ。すごく人間臭いなって思ってて、そこに惹かれてのめりこんでいっちゃったんですよね」
綺麗だけど匂いもない、無菌室のような環境で育った彼女にとって、野性味溢れる山田の存在は新鮮そのものだった。
彼にだけは自分の性癖もカミングアウトできた。
「勇気を出していったんですよ。『私、無理矢理されたり、縛られたり、首を絞められたりしてほしいかも』って。今までそんなこと他人にいっちゃいけないってずっと思っていたから、さりげなくいったようで内心はすごくドキドキしていました。それを聞いた山田くんは別に興味なさそうに『ふーん』とだけいってたんですけど、その日のうちにしている最中首を絞めたり、顔を叩いたりしてくれるようになったんです。実際にそうされたときの感想? ……衝撃でしたね(笑)首を絞められて突き上げられて、初めてそれまでにはない、本当にイクッていう感覚がわかったんです。あぁ、なんだ、今までのエッチなんて全部フェイクだったんだ、私は今まで一体何をしていたんだろうなんて思って、これなんだ私が欲しかったものは! って覚醒したような感覚がありました」
ずっとその存在を押し殺して生きてきた「本当の自分」との邂逅。
その救世主たる山田に対し、彼女は自身でも異常であったと語るほどに傾倒を深めていった。
「もうちょっと尋常じゃないぐらいどんどんどんどん彼にハマっていく自分を感じて、恐いぐらいでしたね。もう本気で彼のことを世界で一番カッコいいと思っていましたし、今私って生まれて初めて本気で本当に恋をしてるんだって真剣に思っていました」
彼女が夢中になればなるほど、山田自身も変わっていった。
「やっぱり人間って調子に乗っちゃう生き物なんですよね。偉そうな態度を許していると殴られたり罵倒されたりってことがエッチのときだけじゃすまなくなってくるんですよ。付き合いだした頃は『亜里沙ちゃん』って呼ばれていたのがいつの間にか『オマエ』になってて、『金貸せよ』とか平気でいってきて、断ると暴力をふるってくるようになっちゃって……」
こんなのは気持ち良くない、全然嬉しくない、イヤだイヤだと思いながらも、彼にお金を渡してしまう自分がいた。
「今にして思えば彼にというよりはただ暴力的なエッチの虜だったんだろうなって客観的に思えますけど、当事は真剣に愛していて、愛しているからこそ彼に逆らえないって思ってて、辛かったけど耐えてましたね。私にはもう彼しかいないと思っていたから、『あとで返すから』っていわれると『何年先かわからないけどきっと返してくれる』って、自分を騙してついついお金を渡しちゃってたんですよね」
貢いだお金は2年間で実に300万円以上にもなったという。
「浮気も何回もされました。やっぱり動物な男ってモテるんですよね。その度に『私が彼女だ!』っていって知らない女の子と喧嘩したりして、本当なんであんなに必死だったのかなって今では本当に謎です(笑)」
そんな激しい熱に浮かされていた彼女にも、冷める瞬間が訪れた。
それは二人で初めて旅行へ行ったときのことだった。
「彼が『安いところでいいから遠出がしたい、ドライブしよう』っていったので、車で三時間ぐらいの距離にある海が見えるホテルまで行こうって計画したんですよ。もちろん、ホテル代も食事代も全部私持ちです。でも、そこまでは良かったんですよ、そこまでは」
ドライブをしたいといいながら、山田は免許を持っていなかった。
必然的に彼女が運転することになるが、彼女は車を持っていなかった。
「大学生のときに合宿で免許を取ってから一度も運転なんてしていなかったんですよ。全く練習もしていないのに数年ぶりの運転で旅行に行くなんて、どう考えても無茶ですよね(笑)まぁでもなんとかなるかなってそのときは楽観的に思っていたんですけど、二人でレンタカー屋さんに行っていざ車に乗ってハンドルを握ったらいきなり恐怖が襲ってきたんです。『あれ? アクセルとブレーキってどっちだっけ? 交通標識ってどんな種類があったっけ?』とか、もう交通ルールも運転の仕方も何もかもがあやふやで、私今日死ぬかも、事故に遭うかもって思って心臓バクバクしてきて、でも彼の方から『ドライブしよう』っていってくれた手前、嬉しくて期待に応えたいと思ってしまって……」
動揺をひた隠し、彼女は決死の覚悟でレンタカーを発進させた。
「そこまでは気合いでなんとかいけたんですけど、車道に出たらもう無理でしたね。出て直ぐの交差点で信号待ちをしている間、もう頭の中には『無理無理、絶対無理!』って諦めの言葉ばかりが浮かんでて、恐くて恐くてしょうがなくて、これはもう彼には申し訳ないけど無理だっていおう、やめようっていおう、お金を渡せば許してくれるはずだからってそんなことばかり思ってて、そうこうしているうちにいつの間にか目の前の信号が青になってて、後ろから『ブーッ!』ってクラクションを鳴らされちゃったんですよ」
その大きな音に弾かれて文字通り頭の中が真っ白になってしまった瞬間、山田が口を開いた。
「『何やってんだよ、さっさと行けよ』っていったんです。いつもならそんないい方をされても『えへへ、ごめんね』って謝るだけなんですけど、なんかそのときはカチンと来たんですよね。おいおい、誰のせいでこんなに苦しんでるのかわかってんのかよって、なんだかすごく頭に来ちゃって。それで発進すると直ぐに『そこのセブン寄って』とかいってきたんです。で、またカチンですよ。あぁ? コイツ一体何様のつもりなんだよってものすごく腹が立ってきました。それでもご希望通りコンビニに行ってやったんですけど、今度は駐車するのにすごい手間取ってしまって。左右に車がある狭いところ一つしか空いてなくて、そこになんとか入ろうとするけど切り返しとかもさぐりさぐりで本当に泣きそうになりながら、それでもなんとか必死に駐車しようとガンバっていたら、暇を持て余していた彼が突然私の胸を触ってきて、「オマエは車庫入れは下手なくせにバックは好きだよな?」っていってきたんです。その瞬間、なんかもう完全に冷めましたね。その発言も態度も、全部含めて一瞬にして何もかもどうでもよくなりました。もう車に対する恐怖心とかも全部消えてて、一瞬完全に「無」の感情になりましたね。あぁ、これが「無」っていうんだなって納得したぐらい。――それからの私は早かったですね。『ごめんね、ぶつけたくないからちょっと降りて誘導して』なんていって降りてもらって、そのまま彼を置いて一人でレンタカー屋に戻りました。さっき出ていったカップルが5分ぐらいで一人で戻ってきて、店の人もびっくりしていましたよね。『お連れの人は?』とか聞かれましたけど、『お腹痛くなって帰っちゃいましたー』とか適当なこといって。それで車返してレンタカー屋を出て一人で歩いて帰った道は、なんだかすごく青い空も綺麗に見えて、清々しい感じがしましたね。生きて帰ってこれた喜びと、洗脳が解けたような、なんか憑き物が落ちたような感じで、さみしくも悲しくもなくただ晴れやかな気持ちでした。それから山田くんは『絶対別れねえからな!』とか『オマエは俺のものだ!』とか俺様彼氏みたいなこといってつきまとってきたりしていたんですけど、女って興味を失うと残酷ですよね、そんな風に彼が私にウケると思ってしていることがもう全部何もかもダサくてイタくて滑稽で、本当にイヤでした。それから仕事先のキープしていた人に『元彼からストーカーされて困っているから守って欲しい』なんてお願いして、それきっかけでつきあい始めました」
職場の上司と深い仲になった彼女は、先日プロポーズを受けた。
「彼はいたってノーマルな人ですけど、結婚するならやっぱりこういう人かなって思って。今はとても幸せです」
そういって笑う彼女の薬指には、指輪があった。
「今の彼にはカミングアウトしないのか?」と尋ねると、ふっと笑った。
「偉そうな態度を許してると夫婦関係って上手く回らないと思うから、いわないと思います(笑)それに、あの車の一件でいざとなったときに私ってそんなにMじゃないってわかったし、もうそういうのは想像の中だけで楽しんでおこうかなって思ってます」
人は経験を通して大人になっていく。
振り返れば恥ずかしくなるような思い出も、今の自分を形作るかけがえのない財産だ。
「でも、幸せな生活に飽きちゃったら恐いかもしれません」
去り際にそう呟いた彼女の、長い影を見送った。
※このインタビューはフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。