芦野 茂(あしの しげる)、42 歳。
マッチングアプリを通じて女性に会う日はいつも、早朝から海に入り素手で魚を獲りに行く。
「自分なりの願掛けですね。それに、女性が空振りでも魚は旨いですから(笑)」
明るく笑う彼は素人童貞。
42年間、彼女ができたことすらなかった。
「出会いがなかったんです」
芦野は中学も高校も男子校だった。
高校三年生のときに父が他界。
体調を崩した母を支えるため、大学進学は諦めた。
「それからはずっと地元の警備会社に勤めています」
周囲に目を光らせ、その場に立ち続ける過酷な仕事。
勤務時間中に女性と接する機会など、道を尋ねられるかキチガイに絡まれるかぐらいだった。
「それでも母がいたから耐えられたんです。幼い頃の我が家はあたたかくて幸せで、本当に楽しかったんです。あの頃を思い出せば、母に恩返しができることを苦に感じることなど何もありませんでした」
20代、30代の時間をすべて捧げて看病してきた母が、一昨年他界した。
「母が死んだときは悲しいというよりも抜け殻になったような感覚の方が強かったですね。生きる張り合いをなくした感じでした」
落ち込む芦野に、上司が声を掛けた。
「就職してからずっとその上司の下についていました。寡黙で飲み会とかも嫌いで、田舎にしては珍しいタイプの上司だったんですが、尊敬していました。そんな上司がある日突然、『差しで飲もう』と言ってくれたんです。母が死んでからずっとボーっとしていたらしいので、心配してくれたんだと思います」
二人で酒を飲んだあと、連れて行かれたのはソープランドだった。
「安心しろ、俺が付き合いで一度だけ行ったことのあるところだ。行ってこい」
「そう言って上司は僕にお金だけを渡し、一人で帰っていきました。スナックもキャバクラも行かない、奥さん一筋の人だったのに、そんなことを教えてくれるなんてビックリしました」
上司の優しさに、心が震えた。
「上司は風俗とか絶対嫌いな人だと思うんですけど、僕のために恥を忍んで極端な提案をしてくれたんだと思います。そう思うと、自然と涙が出てきました。母が死んでからは葬式のときも一度も涙を流したことがなかったのに、上司にもらった3万円を握り締めてソープランドの前で声を出して泣きました(笑)」
しかし、これまでずっとなかった女性との接触に、抵抗感はなかったのだろうか。
「いや、助平な性格ですから、抵抗感というよりは寧ろずっとそういったことに憧れがありましたね。でも、ずっと一人で生きていくうちにいつしかそれは自分にとって無縁なものだと思い込むようになっていたんです。オナニーは毎日欠かしたことがないし、仕事の休憩時間もいつもスマホでオカズを漁っていました。でも、なんとなくそれは別の世界のことのように思っていました。例えるならば自分は貧乏だから高級レストランでは食事をしないけど、毎日カップラーメンは食べる――そんな感覚でしょうか。何も疑問に思うこともなく、ごく自然に、当たり前のようにセックスは僕にとってとても遠い世界にあるもので、オナニーこそが僕自身の身の丈に合ったものだという固定観念に囚われていたんです」
しかし、その日彼はその味を知ってしまった。
「ソープランドの体験は僕の人生における革命でした。柔らかい女性の肌は遠い世界の幻想ではなく、手を伸ばせば届いてしまう、こんなにも近い距離にあったのかとショックを受けました」
それから三ヶ月ほど芦野はソープランドへ通い続けた。
――しかし、女性の扱いになれていない芦野は大きなミスを犯してしまう。
「夢中になって週三ぐらいで通い続けました。そうなると当然特定の女性に入れ込むようになってしまい、さらに無意識に傲慢な要求などもするようになってしまい、気が付けば出禁になっていました」
どのようなことをして出入り禁止になったのか――それについて芦野は多くを語りたがらない。
ただ確かなことは、顔を上げた芦野の目が、そのときを境に再び生気を取り戻したということだった。
「生前、母に言われたことを思い出したんです。『しげるくんの子供が見たかったよ』って。それを言われたときにはいつも『お前がいるからできないんだよ』と心の中で毒づいたりもしていたんですけど、今になってようやく、天国の母にみせてやろうかなって、そう思えるようになりました」
心が決まり、芦野は直ぐにマッチングアプリに登録した。
売女と遊んでいる暇などない。
生涯の伴侶を見つけなくてはならない。
出禁になったくせに偉そうに、芦野の第二の人生が始まった。
――話を現在に戻そう。
「ヤラセリング シテクリング、ヤラセリング シテクリング……」
まだ寒い春の海。
裸になり、その身を震わせながら芦野は海に入っていく。
「ヤラセリング シテクリング、ヤラセリング シテクリング……」
ぶつぶつと呪文のように繰り返している言葉が気にかかった。
「ヤラセリングシテクリング、ヤラセリングシテクリング……え、この言葉ですか? あぁ、これは最近『引き寄せの法則』というのを知りましてね。目標は声に出さなきゃいけないと思って。でも、『エッチしたいエッチしたい』だと子供っぽいでしょ? だから大人の男らしく、『やらせてくれ、してくれ』って意味で『ヤラセリング シテクリング』と繰り返し口にしているんです」
芦野はその呟きながら、静かに海中へと潜っていった。
――ほどなくして海から上がってきた彼の手には、大きな魚が握られていた。
「ほら、みてください! こいつは縁起がいい! 今夜のデートもきっとうまくいくはずです!」
そう言って胸を張った芦野だったが、その晩の結果は惨憺たるものだったようだ。
『あんなバカ女、こっちから願い下げですよ!』
芦野から掛かってきた電話に出ると、いきなり激しい怒声が飛んできた。
延々と続く芦野の女性に対する罵倒を聞いていると、彼が今日まで素人童貞だった理由は出会いだけではないことにイヤというほど気付かされる。
『引き寄せの法則の話を一生懸命してるのに全然真剣に聞こうとしないから、「オイ、その態度はないだろう!」って説教してやりましたよ!』
彼自身が変わらなくては、何も引き寄せられるはずがないだろう。
問題は、彼自身がそれを認められるかどうかだ。
42歳という年齢は難しい。
他人の言葉を素直に受け入れられるほど若くはなく、老いてもいない。
芦野はまた今週末も別の女性とマッチングアプリを通じてデートの約束をしているらしい。
『ヤラセリング シテクリング、ヤラセリング シテクリング……』
広大な海に一人立ち、風に流されて消えていく彼の祈りのような呟きが、今も耳に残っている。
※この記事はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。