03 あとさき考えずに会社を辞めて旅に出たら死にかけて生き返った話 (後編)

「もう今日最後のバスが出る時間ですよ。急げばまだ間に合うかもしれない」
 バス停のある道を教えてもらい、御朱印と護縁珠を受け取り大慌てで向かった。
 ――走り始めて直ぐに、見たこともない仁王門が現れた。
 なんだ、ちゃんと舗装された道があるじゃないか!
 僕はいったい、どこから入って来たんだ!?
 足が千切れそうになるほど痛かったけど、絶対にバスで下山したかった。
 全力で坂道を下っていくと、停車しているバスの姿が見えた。
 きっとドタバタと駆けてくる姿を見て待っていてくれたんだろう、乗り込み、最前列の席に腰掛けると、バスは即座に動き出した。
 ――それからはもう、あっという間。
 何事もなかったかのようにあっさりと山は遠ざかっていき、30分ほどで「雲州平田駅」に着いた。
 たったこれだけのことだったのに、僕は何をしていたんだろう。
 時計を見ると、時刻は17時を過ぎていた。
 とりあえずもう歩きたくないので、ネットでその付近の宿を予約し、駅前に停車していたタクシーに乗り込んだ。

 ホテルに入り、チェックインをして通された部屋。
 リュックを降ろして即、ベッドに大の字になって倒れた。
 ――至福。
 柔らかい布団が全身を包み込んできて、天井がどんどんと遠ざかっていくような錯覚を覚えた。
 ずっと重かった頭が泣きたくなるほど気持ちが良くて、目を閉じると全身がズブズブとベッドの中へ深く埋もれ落ちていきそうな気がした。
『……いや、まだだ! まだ寝たくない!』
 一瞬、完全に意識が途切れそうになって、慌てて首を振った。
 辛い思いをしまくった分だけ、自分に特別なご褒美をあげなくては釣り合わない!
 チェックインをするとき、受付の人からこの近くに温泉があることを聞いた。
 温泉に行こう。
 温泉に入れば、きっと全てが報われる!
 最悪だった今日という一日が、最高の思い出になる!
 濡れた洗濯物の塊のようになっている身体を無理矢理引き起こし、パパは再びスニーカーを履いた。
 
 ダルすぎて徒歩10分ぐらいの距離がとても長く感じられたけど、荷物と心が軽い分だけ苦には感じなかった。
 ――そうして辿り着いた場所は、まさに極楽だった。
 シャワーを浴び、身体を洗うだけでもゾクゾクしたのに、露天風呂に浸かった瞬間はもう、言葉にならないぐらい格別の気持ち良さがあった。
 冷め切っていた全身が芯から温められ、蓄積した疲労がじんわりと湯の中へ溶け出していく。
『……生きている』
 何度も同じ言葉が巡っていた。
 死んでいたんだ。
 ただ繰り返すだけの日々で失っていた感覚が、ここにはあった。
 額と頬に風を受けながら空を見れば、雲一つない空に無数の星が輝いていた。
 気が付けば、もう40時間ぐらいぶっ通しで起きている。
 うんざりするほど長くて辛い、だけど変化に富み、感動に溢れた、素晴らしい一日だった。
 何度も何度もこれが体力の限界だと思うことがあったけど、自分の限界は思っていたよりもずっと遠くにあった。
 きっと、これまでのあらゆることに対してもそうだったんだろう。
 自分で自分の限界を勝手に決め、狭い世界に閉じこもっていた。
 結局、僕がこれまで世界の全てだと思い込んで見ていた景色なんて、ペラペラの紙一枚に小さく描かれたようなものだった。
 顔を近づけ過ぎていたから他が見えなくなっていただけで、離して見ればもっといろんなものが描かれているし、こうして一枚めくってしまえば全く別の世界が広がっている。
 どこにも行けないと勘違いしていた。
 何もかも知った気になっていたけど、まだまだ全然、この世界を知らなかったことに気付かされた。
 ——全部書き出すと滅茶苦茶に長くなってしまうのでここまでにしておくけど、こんな初日から始まった巡礼の旅、最高だったよ。
 二十社寺の護縁珠でできた大きな数珠と満願之証(有料)は、今も大切に部屋に飾ってある。
 振り返って見ればまさにこの日が、パパにとって「十年よりずっと長い一日」だった。
 きっと死ぬまで心にあり続ける、辛いときも嬉しいときも頭の中で繰り返し巡る、かけがえのない一日。
 そもそもちゃんと下調べをしていけば何も問題は起きていなかったとか、そういったご意見は全く受け付けていない。
 愚かしくても馬鹿げていても、この不必要な困難と感動に祝福されて、パパの新しい人生がスタートしたんだ。