02 あとさき考えずに会社を辞めて旅に出たら死にかけて生き返った話 (中編)

「は?」
 誰もいない山の中で、思わず声が出ていた。
 道も距離もわからなくなってしまっただけではなく、何かあっても助けを呼ぶこともできなくなってしまった。
 悪い妄想が頭をよぎる。
 今ここで倒れたら、どうなるだろう。
 崖から足を滑らしたら、蛇に足をガブッとやられたら……。
 パパがこの山中にいることなんて親も友人も知らないし、すれ違う人もいないから、誰にも見つけられないかもしれない。
 いや、それ以前にこの空腹をなんとかしないと、何もなくても身体がもたない。
 いやいや、それどころかこの強い喉の渇きを早く潤さないと、脱水症状で歩けなくなってしまう。
 ――想定外のよくない状況にビビり、焦り、頭の中が軽くパニックに陥っていた。
 諸悪の根源である携帯電話の画面をただ呆然と眺めていたら、突然、パパは致命的なミスを犯していたことに気付いた。
 ――川跡駅から鰐淵寺まで30分ほどと表示されていたそれは、「車」で移動した場合の予想時間だった。
 確かNA○ITIMEだったと思うけど、それまで一度も使ったことのないアプリをよく盲信していたものだ。
 移動方法を徒歩に設定し直してもあとの祭り。
 当然、圏外なので画面には何も表示されなかった。
 馬鹿も馬鹿。
 大馬鹿だった。
 気持ち悪いほど薄暗く静かな山の中。
 前も後ろも右も左も、全部同じ景色に見えてきてゾッとした。
「……さっき出雲大社を参拝したからきっと大丈夫だよ、神様がついている」
 胸を覆い尽くさんばかりに広がってくる不安に耐えかねて、そんな独り言を口にしていた。
「……さて、とにかく動かなきゃいけないね。どっちに行こうかな?」
「どっちだろうね? 分からないね」
「そんな無責任じゃ困るよ」
「え? 自分のことを棚に上げて何を言っているんですか?」
 突然始まった一人の会話。
 口を動かし続けているうちに、何かで聞いた山の知識が思い浮かんできた。
「遭難したら下るよりも登った方がいいんだってね」
「あ、なるほど、確かに。僕もそれを聞いたことがあるよ」
「じゃあ登っていこうか!」
「そうだね! 登ろう!」
「じゃあ僕が先に行くよ!」
「待って、僕が先だよ!」
 お化け屋敷に入った子供が恐怖から逃れようと独り言を連呼するのは可愛いものだけど、パパみたいな成人男性がやっているのは相当に奇異だ。
 銭湯の更衣室で見かけるキチガイの如く、山の雰囲気なんかよりも断然パパの方が気持ち悪かった。
「俺たち遭難したのかな」
「そ・う・な・んです」
「出発進行!」
「おー! ……ってなんだよ、指図すんなよ」
 ――書いているだけでもゾクゾクしてくるようなイタイ独り言の連続に、完全に頭はヘブンモード突入。
「やばいね」
「ああ、やばいね」
「もうすぐ土のなかだね」
「土のなかはいやだね」
 かの有名な「秋の夜の会話」のように、軽快な言葉のキャッチボールをしながら道なき道を登って行った。
「お! ロープがあるね!」
「ロープがあるアルね!」
 途中、エグい傾斜を見つけたところで、太い木と木の間に工事現場にあるような黄色と黒のトラロープが張ってあるのを見つけた。
 こっちに行けという合図のような気もするけど、ただ単に崩れそうな木を固定しているだけのようにも見える。
 周囲を見回しても他に上へ行ける道はなさそうなので、意を決してロープに飛びついた。
 斜面に乗った足は踏ん張りがきかず、両腕の力を頼りにロープを伝っていく。
 下へ下へと全身を引っ張ってくる重力と闘いながら、パパはこんなにも頑張ってくれている自分の身体に感謝を感じていた。
 もうとっくに体力の限界なんて過ぎていると思っていたのに、まだこんなにも必死になって頑張ってくれている!
「ここを出たら、うんと美味しいものを食べようね!」
「ああ、絶対に食べようね!」
 これまで何度も何度も「死にたい」と思い続けてきたのに、今自分は生きようとしている!
 無意識に口をついて出た言葉に、ちょっとグッときたりもしていた。
 とうとう壊れかけてきたところで、突然目の前の道が開けた。
 ――真っ白い建物の壁が見える。
 いつの間にか鰐淵寺に到着していたようだ。
 狐につままれたような気分で一瞬は戸惑ったけど、近くに自動販売機の姿が見えて、一気にテンションが上がった。
『やった! 助かった!』
 付近に誰かいるかもしれないので、心の中で叫んだ。
 僅かなエネルギーを振り絞って駆け寄ると、電気が入っていなかった。
『……』
 ちょっと尋常じゃないほどガッカリしたけど、そのすぐそばの「浮浪の滝」と書かれた看板の文字が目に入った。
 なんか近くに滝があるみたいだ。
 それを見た瞬間、閃いた。
『よし、飲み干してやろう!』
 自販機がダメなら、滝の水を飲めばいいじゃない。
 もう既に目的地に辿り着いていると思うと、それまで抱えていた不安と恐怖の反動からか、凄く強気になってきた。
 ボロボロの身体でズンズンと進んだ。
 直ぐに辿り着くと思っていた滝もそれなりに険しい道のりで、長い階段があり、崖のようになっている危険な箇所もあり、その気力がなかったら踏破できなかった。
「おぉ!」
 ようやく辿り着いた浮浪の滝を見た瞬間、思わず声が出ていた。
 遥か高く、天から降り注ぐ水のカーテンの向こうに、切り立った岩壁から生えているようなお堂の姿が見える。
 その手前には雲の切れ間から差し込む陽の光を受け、小さな虹が歓迎のアーチのように輝いていた。
 一瞬、疲れ過ぎて脳がバグったのかと思うほど、幻想的な光景が目の前に広がっていた。
 圧巻の美しさにクラクラとしつつ、フラフラと滝の下まで進み、両手でその水を受けた。
 口に含み、一気に飲み干す。
『美味い!』
 清らかな水が極度の脱水状態だった全身に染み渡っていくのを感じた。
 何度も何度も、むさぼるようにガブガブと夢中になって飲みまくった。
 ――どれぐらいそうしていただろう。
 お腹ポンポンになるまで飲みまくり、渇きと一緒に空腹感も満たされた瞬間、突如としてふっと力が抜けた。
 緊張の糸が切れたんだろう。
 ガクッと全身が重くなり、足だけじゃなく肩もパンパンに張っていたことに気付いた。
 流石にちょっと休もうと思い、付近にあった屋根のついた休憩所の椅子に腰掛けた。
「はぁ……」
 ため息が出た。
 川跡駅を出てから数時間ぶりに止めた足は、もはや感電しているかのように小刻みに痙攣し続けていた。
 リュックサックを床に置き、滝の水を浸したタオルを首にかけると、首筋から背筋を一筋の水が伝った。
 気持ちいい。
 目を閉じると、サーッという音ともに滝の方から清涼とした風が吹いてくる。
 木々の擦れ合う音、虫の声、鳥の声。
 自然の中をこんなに動き回ったのは、きっと生まれて初めてのことだろう。
 世界がこんなにも瑞々しくあったなんて、知らなかった。
 ここには何もないけど、すべてがあった。
 僕は社会人である前に人間であり、動物であり、そして、この世界の一部なんだ。
 ――そんなとりとめもないことを思いながらたゆたっていると、うつらうつらと意識が遠のきそうになってきた。
 本当に心地が良くて何時間でも座っていられるような気がしたけど、目を開けて周囲を見渡せばもう日が暮れ始めていた。
 戻る道には危険な箇所もあったので、長居はできない。
 それに、寺務所で御朱印と護縁珠をもらわなくては、明日もまたここに来ることになる。
 根の生えそうだったお尻を椅子から無理やり引っ剥がし、元来た道を歩きだした。
 自販機のあった場所へ帰ってくると、もはや他に寄り道をするような場所はなく、パパは本丸「鰐淵寺」への参拝を開始した。

 この期に及んでまだこんな試練があるのかと思うような長い石段を登り、まず本尊の千手観音があるとされる根本堂にお参りした。
 続いてその周囲にある神社やお堂を順に回っていると、ひらひらと紅と白の羽をつけた小さな蝶がパパの周りを舞い、ついてきてくれた。
 それがあたかも困難に打ち勝ち目的を達したことを祝福してくれているかのように感じられて、嬉しかった。
 無事に参拝を終え、寺務所に向かった。
「神仏霊場の巡礼です」と言って御朱印をお願いすると、応対してくれたご住職から「どうなされたんですか?」と言われた。
 汗と泥に塗れた、ボロボロの異様な姿を見て、驚かれていたようだった。
「いやぁ険しい道だったもので……」
「え? どこから来たんですか?」
「川跡駅の方から歩いて来ました」
「えぇ? 山を登って来たんですか? バスがありますよ?」
 サラッと衝撃的なことを言われた。